毎日新聞2024年4月27日付朝刊一面コラム「余禄」は、1972年の札幌オリンピック70m級ジャンプで見事日本人初の金メダルに輝き、今月23日80歳で亡くなった、笠谷幸生さんが、競技生活の終盤まで「無念無想のスタート」を目標としていたことを紹介している。「余禄」では、金メダルをたたえるというよりも、むしろ70m級後の90m級での失敗を重視し、新たな境地を目指し続けた札幌五輪後の姿にこそ、笠谷さんの本質があるのかもしれないと不朽の功績をいかにも笠谷さんらしいと称え、偲んでいる。 実は本欄の執筆者江原幸雄(当研究所代表)は1972年札幌五輪時、北大大学院生で札幌在住であった。70m級で日本の3選手(笠谷幸生・金野昭次・青野清二)が金・銀・銅メダルを独占し、当時日の丸飛行隊として、札幌市民・北海道民だけでなく、日本国民全体が快挙に熱狂的にこたえた。小生は、札幌にいたが残念にも70m級を見るチャンスをに恵まれず、90m級観戦を心に決めていた。 90m級は新設の大倉山シャンツエで行われ、1回目のジャンプで笠谷選手はトップに立ち、全選手の2回目のジャンプが終了し、いよいよ笠谷選手の最後のジャンプの時となった。しかし、どういうわけか、この時になって風が安定せず、笠谷選手はジャンプ台でたびたび待たされた。誰もが2回目のジャンプに失敗がなければ2つ目の金メダル獲得を期待していた。しかし、風はなかなか納まらず、笠谷選手の心境はいかだったか。観客の待ち焦がれる気持ちも気になったか。 風が一瞬止まったのかもしれない。小生はもう少し待てばと直後に思った。計り知れない重圧の中で、笠谷選手は決断し、ジャンプ台を滑り始めた。風と踏み切りのミスから7位に終わったことへの反省があったという。風に左右されるジャンプ競技を「賭け」と言いつつ、70m級は金メダルを獲得した。しかし、90m級の失敗をむしろ重視し、新たな境地を目指し続けた笠谷選手。札幌五輪後の姿にこそ、笠谷さんの本質があるのかもしれないと「余禄」の著者はまとめた。 歴史に「もし」はないと言われる。人生ではひとつならず決断の機会がある。あらためて、笠谷幸生さんのご冥福を祈る。